GW特別企画!マーケティングアンテナ総集編!
忙しいあなたのためのマーケティング情報サプリメント。週に一度、厳選されたトレンドと洞察をまとめていきます。これを読めば「主要なトレンドをキャッチできる」、そういった想いで届けてまいります。まずはご登録をお願いいたします。
【カルチャー】
「量産型の本物」という皮肉。インディーコーヒーショップはなぜどこも同じ雰囲気なの?
面白い論考を見つけた。
リンクにあるThe Conversationに掲載された公共空間と消費文化の研究者による調査で、テーマは「スタバやブルーボトルではない、インディーズのイケてるコーヒーショップが、結果的にどこも同じような見た目になってしまっているのはなぜか」というもの。
確かに僕はカフェ大好きマンなので、世界中でスペシャリティコーヒーショップやロースタリーに足を運ぶし、たくさんの素晴らしいショップがあるのだが、ではそれらすべてが全く質感が違うか、というと残念ながら首を横に振るしかない。
むき出しのレンガ壁、大きめの観葉植物、手書きの黒板メニュー、再生木材のカウンター、地元アートの展示、ヴィンテージ家具。そんな店でタトゥーと髭を備えたバリスタが、エスプレッソマシンの前でラテアートを描いてにこやかに提供する。シカゴにもバンクーバーにもサンフランシスコにもニューヨークにも、「同じ顔をした」カフェがある。

これらの特徴を全て入れ込んだカフェの画像を生成してみたけど、めちゃくちゃそれっぽいね。こんな感じの店に僕は多分2025年に30回ぐらい行っています笑
美学はどこにでも移植できるのか
研究者たちは北米の都市に住む若手プロフェッショナル100人以上に、自分のお気に入りのインディーコーヒーショップの内装写真と、そのデザイン要素を聞いた。23項目のチェックリストから選ぶ形式。
結果はかなり一貫していた。お気に入りの店の約3分の2がタトゥーやピアスをしたバリスタを雇っていて、半数以上に髭のバリスタがいた。黒板メニュー、再生木材、地元アート、ラテアート、地元イベントのポスター、むき出しのレンガを備える店が半数を大きく超え、ヴィンテージ家具、コミュニティ掲示板、来店者向けの無料本、観葉植物も多くの店に共通する。
さらに研究チームは、参加者に6枚の写真を見せ、そのカフェがシンシナティ、セントルイス、トロントのどれにあるかを当てさせた。一人として全問正解できなかった。さらにシカゴとサンフランシスコの2都市から1枚ずつ選択式で当てさせるテストでも、両方正解できたのはわずか6%。約20%は即座に諦めた。つまり「その都市特有の空気感なんて存在しない」し、シカゴとサンフランシスコは3,000kmも離れているのにチェーン店でもない独立系のショップの「イケてる」が共通しちゃってるという残酷な事実。
北米のインディーコーヒーショップは、場所を特定できないほど均質化しているということ。チェーン店を拒絶するはずの個人経営店が、事実上のブランドフランチャイズのように見た目を揃えてしまった。ちなみにこの調査結果は北米でやっているが、東アジア、東南アジア、北欧など様々に訪れている私のリアルな感覚からしても、ぶっちゃけ均質化しているのは世界的な傾向だと感じる。
アルゴリズムの方に人が寄っていく事実
研究者たちは複数の要因を挙げている。
一つ目は、ニューヨーカー誌の文化批評家Kyle Chayka氏の言う「アルゴリズムの専制」。InstagramやPinterestが「反応がいい見た目」を優先的に表示するので、似た画像が繰り返しバイラル化する。開業を考える店主も、開店前にそれらを検索して参考にする。かつてカフェのマスターは自分の美意識だけで店を作っていたが、今はPinterestやInstagramで「おしゃれなカフェ」を検索すれば「評判の良い見せ方」が瞬時に見つかってしまう。もちろん自分の店をオリジナルにしたい強い気持ちはあるだろう。でも深層の美意識に刷り込まれるものが浸透するのは相当な自我が求められる。
二つ目は、AIがこの均質化を加速させる可能性。AIモデルは大量に流通した画像で訓練されるので、広く共有された視覚パターンが再生産される。研究者Roland MeyerとJacob Birkenはこれを「プラットフォーム・リアリズム」と呼んでいる。個性が消え、ヘゲモニック(支配的)な美学に収斂していくのは止められない未来だ。
三つ目は、金融のリスク管理。新しいカフェの開業には北米では8万〜30万ドル(約1,200〜4,500万円)かかり、5年以上生き残る店はごく一部。銀行は当然開業の際にどんな店かを問う。そして融資リスクを抑えるため、最も幅広い顧客に受ける「無難なデザイン」を奨励する。
消費者側にも責任がある
僕らは「本物らしい特別な空間にいる自分」を感じたいが、同時に、理解できない真の異物は求めていないのかもしれない。ライフスタイルや社会的地位に収まる範囲で「ちょっと違う」ものが欲しいだけで、根本的にズレた美学はむしろ排除する。だって悪目立ちしてしまうし「良さそうな空間」に居る方が基本的にはリラックスできるだろう。
コーヒーショップに来る人は、美味しいエスプレッソだけを求めているのではなく、自分のライフスタイルと願望に合う「シーン」に没入したい。そんな時に独自の世界観バリバリだとさすがに落ち着かないのは仕方ない話。
消費者である僕らは人と違くありたいけれど、それはあくまで安全圏の中での話。真の異物、真の個性、本当に理解できないものに対しては、多くの人は冷淡なのである。好むと好まざるとにかかわらず、僕らが求めているのは「オーセンティシティの記号」であって、オーセンティシティそのものではない。この構造自体は、コーヒーショップに限らず、ファッション、音楽、インテリア、料理などなど…都市のあらゆる場面で起きている。自分らしさと安心の狭間にいるんじゃないのかな。
それは誰も悪くない、と受け止めるとして…それでもこの先に何が必要かと考えると、一つは、生み出す側の覚悟。アルゴリズムや銀行や無難な選択肢が誘導する平均値から、意図的に外れることを引き受けられるかどうか。実際、強烈な成功を得ているのはそういう存在だ。ジェントルモンスターのとんでもないデザインのサングラスを見るといい。

もう一つは、受け取る側の感性。僕らが「よくわからないもの」「居心地が少し悪いもの」「意図がすぐに読めないもの」を、排除せずに面白がれるかどうか。Pinterestで映えない店、インスタに撮っても伝わらない空間、一見ダサく見えるけれど妙に気になる場所。そういう店を選び、通い、評価することで、多様性の経済圏が維持される。自信をもって自分のスキを押し通す人が増えたらいいと思ってるし、ある意味このニュースレターができるだけ色んなことを取り上げるのも、僕にとってもその活動で、そして気づきが増えることを考えていたりする。
量産型の本物に囲まれて満足するか、少しだけ居心地の悪い本物を探しに行くか。
NEON ONI——AIで作ったフェイクバンドが「ホンモノ」になるまで

生成AIで作った音楽であることを隠してリスナーを集めたバンドが、バレた後に実際のメンバーを集めて「本物」になっていく。そんな小説のような物語が現実に進行中。
NEON ONIはメタルバンド。BABYMETALの系譜にある「カワイイメタル」の影響下で、東京を拠点に活動するバンドという「設定」で昨年9月から楽曲の投稿を開始した。Spotifyのリスナー数は8万人に到達し、グッズ販売も好調。ただこのバンド、話題になってしばらくたち、AIを使っているのでは?という疑いが絶えなかった。そしてリスナーの分析により、楽曲がAI生成ツールのSunoで制作されていたこと、拠点も東京ではなく欧州であることが特定された。
普通であればここで炎上してプロジェクトは終了する。現在、クリエーティブの世界においてAI活用は非常にセンシティブである。AI音楽の詐欺事例はすでにいくつもあり、AIで膨大な偽楽曲を生成してボットでストリーミングを水増しし、7年間ロイヤリティを不正搾取してFBIに摘発されたケース。DrakeとThe Weekndの声をディープフェイクした曲がバイラルになり、レーベルから侵害コンテンツとして非難されたケース。AIバンドとして発覚した後「これは元々アートプロジェクトだった」とレトロニムで正当化を試みたケース。
しかしNEON ONIはここでは終わらなかった。
フェイクから逃げずに、現実化を選んだ
制作者は、実在するバンドから7人のミュージシャンを集め、昨年末に新宿で「初ライブ」を実施。さらに現在ではこのメンバーでメタルフェスのコンペを勝ち抜いている。AIが作った曲を、人間が演奏し、人間の観客の前で披露し、実力でフェスの審査を通過しているのだ。
制作者自身は「AIが皆の仕事を奪う時代に、これは実際に仕事を作り出した。全く逆のことをやった」と述べている。弁明として正直都合がよくないか?とは思ってしまうが、事実としては確かにそうなっている。AIで集めた8万人のオーディエンスがあるからこそ、実際のミュージシャンを集める交渉が成立し、ライブが実現し、コンペも通過できている。
ゼロからバンドを始めても、最初の数百人のリスナーを集めるのは途方もなく大変だ。でもAIで楽曲を量産し、コンセプトを練り、SNSで拡散すれば、実力を証明する前にオーディエンスを獲得できる。そのオーディエンスが「実体化する価値がある」という判断材料になり、実際のミュージシャンが集まる。順番が逆転している構造。
批判的に見れば、騙されたリスナーへのリスペクトの問題は残る。フィクションが現実になれば全てOKかというと、それは「詐欺が成功すれば許される」論理に近い部分もある。発覚時に離れたリスナーにとっては、後から本物になったところで全く同じスタンスで応援できるか?と言えば微妙だろう。
それでもこの「出口戦略」は面白い
ただ、AI音楽の詐欺や欺瞞が発覚したケースを並べてみると、NEON ONIの対応は相当変わっている。逃げるか、言い訳するか、潰されるか。大半はそのどれか。
NEON ONIは「実体化する」を選んだ。もちろん実体化に伴っては欧州拠点でのWEB制作、といった環境とは比較にもならない運営コストが発生する。その覚悟があったということだ。確かに始まりはフェイクだしその来歴がなくなることもないが、発覚後の選択肢としては誠実な方と言える。いや、誠実というと語弊があるかもしれないが、少なくとも「嘘を現実で上書きしようとした」という意味では、言葉で正当化するより遥かにまっとうだ。
生成AIが出発点でも、そのフェイクが現実になれば、そこに熱狂は生まれる。新宿のステージで7人のミュージシャンが実際に演奏し、観客が実際に盛り上がっている。その事実は消えない。これも一つのストーリーの形だと思う。一方で二匹目のどじょうが許される内容ではない気もする。AIである意味コンセプト検証をするようにアーティストを投げかけて、あとで実態するようなPDCAは果たして許されるのか?なんて思ってしまうわけで。
リスニングパーティー。音楽マーケティングにおける「静かな地殻変動」
音楽業界のアルバムプロモーションに大きな変化が生まれている。そのキーとなるのは「リスニングパーティー」。最近、ビリー・アイリッシュやタイラー・ザ・クリエイター、そしてROSALÍAと、グローバルトップアーティストたちがこぞって「リスニングパーティ」を世界各所で開催している。
私は実際に東京で開催されたROSALÍAのパーティに参加して、その理由が肌感覚で理解できた。単なる試聴会ではなく、精緻に計算された音楽体験であり、そしてサブスクリプション時代、アテンション時代に対する強い対抗策になっている。

「ながら聴き」への宣戦布告
今、音楽は曲単位で聞かれるようになっている。スマホ×SpotifyやApplemusicは便利だが、アルバムという単位を解体され、勝手にサービスが「自分の気に入りそうな曲」を判断してサジェストし、プレイリストを作る。結果的にアーティストの多くはアルバムを出す頻度が激減し、単発でシングルをて数多く打つことがヒットの法則になりつつある。アルバムの価値というものが大きく減衰している。
リスニングパーティの設計は、こうした潮流に抗っているスタイル。「アルバム1枚を順番通りに効かせる」という強制的な体験である。会場では携帯電話を専用ポーチに封入される。強制的なデジタルデトックスと情報統制。暗闇の中で、目の前には歌詞を表現したタイポグラフィだけが浮かぶ。
逃げ場がないから、聴くしかない。
すると不思議なことが起きる。
普段なら聞き流してしまう微細なブレスや、曲間の「間」の意味が、痛いほど伝わってくるのだ。もちろん優れた音響であることも貢献している。「この曲順でなければならなかった理由」が、理屈ではなく身体に入ってくる。スマホを奪われるという「不便さ」が、逆説的に「没入」という最高のUXを生み、体験の鮮烈度合いを高めている。
「映画館」化する音楽体験
考えてみれば、私たちは映画を見るために2,000円を払い、暗闇で2時間拘束されることを「娯楽」として受け入れている。音楽だけが「無料かつ自由」になりすぎていたのかもしれない。
リスニングパーティは、音楽体験を「映画館化」する試みだと言える。自宅のテレビより映画館のスクリーンの方が感動するように、AirPodsよりスタジオのスピーカーで、他人と空間を共有しながら聴く方が、作品の解像度は段違いに上がる。もちろん解像度が高い最高の体験を経験すれば、その作品に対する思い入れも高まる、事実私は、この「Lux」というアルバムを大好きになった。
「本人不在」という最強の拡張性
ビジネスモデルとしても秀逸だ。従来、ファンを熱狂させるリアルイベントには「アーティスト本人の稼働」が不可欠だった。しかし、ワールドツアーはインフレでコストが高騰し、チケット代も跳ね上がっている。
リスニングパーティには本人はいない。にもかかわらず、私が体験した東京会場は、まるでライブ終わりのような静かな高揚感に包まれていた。
本人が移動する必要がないため、世界中の都市で、同日同時刻に開催することも可能。時差を超えて世界中のファンが「同じアルバムを聴いた」という連帯感が生まれ、それがSNSでの爆発的なシェアに繋がる。実際、このブーストもあってROSALÍAの『LUX』はSpotifyグローバルチャートで1位を記録した。スペイン出身の歌手としては記録的ヒットである。
デジタルで「広く薄く」拡散するだけでは、もう心は動かない。フィジカルな空間で、誰かの1時間を深く「独占」する。その没入体験こそが、ファンを信者に変える。ちなみにお土産にトートバックをいただけたのですが、それもまた素敵なデザインで体験として良かったです。↓

【メディア】
Grok自動翻訳で「言語の壁」が消えた週——BBQが日米をつないだ話と、その先にあるもの
今週、XのタイムラインにアメリカのBBQ画像が大量に流れてきた人は多かったと思う。
震源地は、漫画家のふとしSLIMさんが投稿した佐世保の飲食店で米軍兵士が肉を焼くイラスト。日本では「日本が思うアメリカ人らしい画像」として拡散し、そこから実際のBBQ体験談や日米の焼肉文化比較が連鎖的に広がった。ここまではよくある日本語圏のバズだ。

普通ならここで終わる。日本語の投稿は日本語圏で消費されて終わるのがこれまでのSNSだった。
今回違ったのは、Grokの自動翻訳機能の登場。ちょうどこの投稿がバズるタイミングでXが本格展開したこの機能は、ユーザーが翻訳ボタンを押さなくても、外国語の投稿をAIが自動で翻訳してフィードのおすすめに載せる。従来の「見つけた投稿を手動で翻訳する」のではなく、「翻訳済みの投稿がアルゴリズム側から勝手にやってくる」というUXの大きな変化。
結果、このBBQ投稿がアメリカのユーザーのフィードに自動で表示された。
言うまでもなく、アメリカ人にとってBBQとは特別な意味を持つ。(余談だがNetflixにあるBBQNo.1を決める番組はめちゃくちゃ面白いので見てほしい)アメリカ側は自慢のBBQ画像で応戦し「ウチに来たら無料で食べられるよ」「ビールも出すよ」と日本のユーザーに話しかけ始めた。日本側がさらに反応し、日米のユーザーがBBQを媒介にしてリアルタイムで交流するムーブメントが生まれた。イーロン・マスクも「Grokがさまざまな言語を理解しておすすめすることで、初めてこういう交流が可能になる。長年の目標だった」とコメントしている。

BBQは第一歩に過ぎない?!本質は「言語サイロの崩壊」
SNSは建前上「世界に発信できる」とずっと言われてきた。でも実際には、言語が事実上の壁として機能していた(特にガラパゴスな日本においては)。日本語の投稿は日本語ユーザーにしか届かない。プラットフォームのアルゴリズムも、ユーザーの言語設定に基づいてコンテンツを配信しているので、言語圏ごとにサイロ化した状態がフツウだった。
Grokの自動翻訳とおすすめへの統合はこの壁を一瞬で壊した。ユーザーが何もしなくても、アルゴリズムが「この日本語の投稿はこの英語ユーザーに関連がある」と判断し、翻訳済みで差し込んでくる。これ、結構な精度なので、最近の私のおすすめ欄は感覚的には3割強が海外の投稿だ(僕がK-POPオタクであるがゆえに、他の人よりはこの数字は多いかもです)
投稿者の側にとっても、自分が意識しないまま世界中のフィードに載る可能性が出てきた。Xの元プロダクト責任者は「自分の言語で、自分の文化や日常を投稿しろ。次にバズる国になれ」とクリエイターに呼びかけている。言い方は煽り気味だが、構造としては正しい。母語で書いたものが、翻訳コストゼロで世界に届く。それが興味深ければいきなり全世界に届く可能性が生まれたわけだ。
機会とリスクは表裏一体
これがエポックメイキングである理由は明快で、コンテンツのグローバルリーチが言語能力から切り離された。英語が書けなくても、日本語の投稿が世界でバズりうる。ブランドやクリエイターにとって、「世界バズ」を狙える土壌が一気にできた。
一方でリスクも同時に拡大する。
第一に、文脈の喪失。AIの翻訳精度は上がっているが、スラング、皮肉、文化的なニュアンスを完全に反映してはいない。BBQのようなポジティブで視覚的なコンテンツは翻訳しやすいが、政治的な発言、ブラックジョーク、特定のコミュニティ内でしか通じない文脈は、翻訳された瞬間に意味が変わりうる。そしてそれを是正する手段は、広がるスピードよりも遅いはずだろう。一言の誤訳で炎上が国境を越える可能性は、手動翻訳の時代より格段に上がった。
第二に、炎上のグローバル化。日本国内で収まっていたはずの批判やトラブルが、自動翻訳を経由して海外に飛び火するリスクがある。逆もまた然りで、海外の文脈を知らないまま日本語に翻訳された投稿に反応して、意図せず国際的なトラブルに巻き込まれる可能性もある。
第三に、モデレーションの難しさ。翻訳されたコンテンツの品質管理を誰がやるのか。元の投稿は問題なくても、翻訳が不正確だった場合の責任はどこにあるのか。プラットフォーム側もまだ答えを持っていない。
BBQの交流は微笑ましいし、こういうコミュニケーションが増えること自体は素晴らしい。ただ、同じ仕組みが政治、社会問題、ブランドの危機管理に適用されたときの危険性も同時に感じてしまう。「母語で書いたものが勝手に世界に届く」は、機会であると同時に、これまでになかった種類のリスクでもある。SNSの真の意味でのグローバル化はまだ始まったばかり。
Pinterestが予測する2026年——「ambient chaos(過剰刺激時代)」の3つの兆し
Pinterestが自社の検索データから発表している年間トレンド予測「Pinterest Predicts」。Pinterestのデータは検索エンジンとも違い、生活者の気分をより鮮明に反映していて、新しい動きを予測するのに効果的。元の文書では21のトレンドが紹介されているが、ここでは全体感を見ながら3つの生活者の「兆し」を考察してみました。
Pinterestは今の状況を「ambient chaos(アンビエント・カオス)」と名付けている。世の中に過度な刺激が溢れ、コンテンツは過多になり、デジタルノイズが絶えない状況。そんな中で、生活者はどう動くのか?
兆し1:デジタル疲れから、「手触り」が復権する
世界の月間アクティブユーザーの4人に1人が、ビンテージやレトロの収集などノスタルジックな活動を増やしている。Z世代の1/4以上が手書きや手紙を生活に入れ込んでいる。触感の快感を前面に出したグミ的触感もトレンド。日本でも昨年末から「ボンボンドロップシール」が大きくバズした。NHK Eテレのハンドメイド番組が、LE SSERAFIMのSAKURA起因で広がったのも記憶に新しい。触覚を中心とした感覚が、2026年は大切になる。
兆し2:日常を「異世界化」する工夫が加速する
世界的にインフレ傾向は強まり、派手な消費や海外旅行はなかなか難しい。そんな中で、人々が向き合わなければいけない現実の中で、現実逃避できるファッションやメイク、楽しみ方が重要になる。例えばY2Kを推し進めたような「宇宙」っぽいメイク。家の中にアールデコのような派手なものを取り入れる動きも出ている。お金をかけずに、日常を異世界化する。これが2026年のサバイバル術になる。
兆し3:「整っている」への反動——もっと盛ってこ!
2024年や2025年はクワイエットラグジュアリーなどミニマルにする方向性が語られていた。一方で2026年は「盛っていいよ」という空気感に変わってきている。レースのような装飾が服や小物まで浸透する。80年代的な豪華さを再度取り入れる動きも出てくる。ただし、なんでも過剰というわけではない。「コントロールされた過剰」がポイントだ。選択的に「盛る」場所を過剰に盛っていく、メリハリのある盛り方が、2026年の気分。
刺激過多の時代に、人は触覚と異世界と過剰に向かう
3つの兆しに共通するのは、デジタル疲れへの反動だ。手触りを求め、日常を異世界化し、ミニマルから過剰へ。すべてが「刺激のコントロール」を取り戻す動きといえるかもしれない。
2026年は、自分で刺激の種類と量を選ぶ時代になる。Pinterestが捉えた兆しは、生活者が主導権を取り戻そうとしている証拠。
「死了么」(死んだ?)と1日1回問いかけるアプリの世界的大ヒット。なぜ中国は震源地となったか。

中国発アプリ「死んだ?」が、世界で大ヒットした理由
中国発のアプリ「死了么/Demumu」がリリースの約半年後に突然大ヒット。中国のApp Storeランキングで首位になり、世界へ波及。米国のApp Store有料ランキングでも1位に達し、大量の模倣アプリが登場。
機能は実にシンプル。1日1回ユーザーが「生きている」というボタンをタップするだけ。2日連続で操作されなかった場合、緊急連絡先に連絡がいき、生存確認がされる仕組み。現在はDemumuという名前に改名されているが、もとのアプリ名称は「死了么」。中国語で「死んだ?」という刺激的な名前だったんです。
「誰にも気づかれず死ぬ不安」が、中国に広がっていた
この奇妙でシンプルなアプリが急に話題になったのは、現代中国の時代背景を反映している。
中国では都市部の若年層の独居が増えるなど、あらゆる世代で一人暮らし人口が増加している。それと連動して、事故、急病、孤独死 -理由は様々だが「自分が誰にも気づかれず死んでしまうのではないか」という不安が社会に広がっていた。
興味深いのは、孤独死が大量に増えているという統計は確認されていない点。つまり「社会の共有する不安」が存在し、その感情にこのアプリが刺さった。
この社会背景に対して、役立つだけでなくブラックユーモアでアプローチしたのがこのアプリだ。機能としては安否確認だが、アプリ名称は「死んだ?」。海外でも伸びたことを受けて、アプリ名称は「Demumu」に変更された。立ち上がりつつあるブランドに人格を与える狙いもあったんだろう。しかし、機能が非常に単純なため、同じ名前を名乗る類似アプリが大量に出現し、公式を識別できない事態に発展した。この奇妙なアプリが公式としての立場を守り、存在感を示せるかは不透明だ。
社会の「気分」を、えぐる名前と機能
このアプリの勝因は2つある。
第一に、社会的に広がる「気分」に対してはっきりとえぐっていく強烈な名前。第二に、直感的に社会課題と接続したシンプルな機能。
ブラックユーモアと実用性を両立させ、語られていなかった不安を可視化した。「死んだ?」という名前が、むしろ不安を笑い飛ばす余裕にもつながったのかも。
【マーケティング】
「AIを使っていません」が売り文句になる時代——スロップへの嫌悪が生んだ逆転現象
アメリカン・イーグル傘下の下着ブランドAerieが「私たちは約束します。AIで生成された身体や人物は一切使用しません」と宣言したらしい。
広告では女優のパメラ・アンダーソンがチャットボットにモデルの生成を指示する場面が流れ、最後に「実は全員本物の人間でした」と種明かしされる。AIをネタにしつつ、自社がいかにリアルなのか、を説明する流れ。Aerieはもともと、2014年から広告写真のレタッチをしないことを公約していたブランドでボディポジティブの文脈をもともと持っている。CMOは「私たちのDNAはリアルさ。ストレッチマークを消したりしない」と語っていて、AI不使用の明言はその延長線上にある。
これはAerieだけの動きではなく、アーモンドブリーズはジョナス・ブラザーズを起用した広告で、AIが作ったダサい広告案を見せて笑いものにするキャンペーンを打っていてフィットネスブランドのEquinoxも同様に反AI的なクリエイティブを展開している。Apple TV+の一部番組ではエンドクレジットに「This show was made by humans」と表示されるようになった。
「AIを使っていない」ことを明言することが、ブランドのポジティブなシグナルとして機能し始めている。果たしてこの現象は今だけなのか、これからも続くのか。
消費者の嫌悪感は数字に出ている
ガートナーの調査によると消費者の68%が「目にしているコンテンツが本物かどうか」を日常的に疑っている。そして50%が「マーケティングに生成AIを使用していないブランドにお金を使いたい」と答えている。ソフトウェア企業Cintの調査でも、63%の消費者が「ブランドにはマーケティングでAIを使用した際の開示義務がある」と考えている。
Tracksuit社の6,000人超の米国消費者調査では、AI生成広告への感情は39%がネガティブ、36%がニュートラル、ポジティブは18%にとどまった。驚くべきことに「AIを使っている」ことが購入にも影響してしまうことだ。
この数字の背景にあるのは、SNSフィードに溢れる「スロップ」だろう。AIで粗製乱造されたコンテンツ——不自然な手指、ぎこちない表情、感情の通わない映像。毎日のようにそれを目にしている消費者が、ブランドの広告にも同じ匂いを嗅ぎ取ったとき、嫌悪感を抱くのは当然かもしれない。また、クリエーションに関してAIが入り込むことにも根強い嫌悪感がある。昨今ゲーム会社などは「どこでAIを活用しているのか」を明言しないと叩かれることがある。
Link in Bioニュースレターの著者Rachel Kartenが言っている指摘が鋭い。「実際にAIかどうかより怖いのは、本物のコンテンツまでAIだと疑われるようになっていること」。AI不使用をわざわざ宣言しなければ、本物であることすら信じてもらえない。Instagramのアダム・モッセリも「フェイクメディアより、リアルメディアにフィンガープリントを付けるほうが実用的になるだろう」と語っていて、真偽の証明責任が「偽物を見つける側」から「本物を証明する側」に移りつつある。
2025年のAI広告炎上が地ならしした
この流れには助走がある。2025年はAI生成広告の炎上が相次いだ年だった。マクドナルドのオランダ法人がAI生成のホリデー広告を出して批判を浴び撤回。コカ・コーラのAIトラック広告も視覚的な違和感を指摘された。MetaのAI広告プラットフォームは、広告主が選んだクリエイティブを勝手にAI生成コンテンツに差し替えて問題になった。H&MがモデルのAI「デジタルツイン」を使い、肖像権や雇用の倫理が問われた。ヴォーグのAIモデルキャンペーンは非現実的な美の基準を助長すると批判された。
業界メディアのDesignRushは、こうした炎上に3つのパターンを見出している。コスト削減のメリットが風評被害で帳消しになること。レガシーブランドほどAI実験への批判が厳しいこと。そしてラグジュアリー消費者がAIを最も即座に拒絶すること。
消費者はAI生成コンテンツの匂いを嗅ぎ分けるリテラシーを急速に身につけ、ブランド側もそれに対応し始めた。「AI臭さ」は笑いものになるレベルで消費者の中であたりまえになりつつある。

制作過程での使用と、アウトプットの使用は別の話
Aerieが宣言しているのは「AIで生成された身体や人物は使わない」であって、「制作過程で一切AIを使わない」ではない。ここの区別はかなり大事で、アイデア出し、コピーの叩き台、データ分析、ターゲティングの最適化といったバックエンドでAIを活用することと、最終的なアウトプットとして消費者の目に触れるコンテンツをAIで生成することはもちろん違う話。
消費者が嫌悪しているのは後者で、自分が見ている画像や映像が「人間が作ったもの」ではないと感じたときの不信感。前者については、そもそも消費者が認知する場面がない。
だから「No AI」宣言がマーケティング的に効くのは、消費者が直接目にするクリエイティブに限定されている。ブランドが裏側でAIを効率化ツールとして使うこと自体は、今後もなくならないし、なくす必要もないだろう。
「人間が作った」がプレミアムになる未来
オーガニック食品のラベルが「農薬を使っていません」と表示するのと同じ構造が、広告やコンテンツの世界に生まれつつあるってことなんじゃないだろうか。かつては全部が人間の手で作られていたから表示する必要がなかった。AIが普及したからこそ「人間が作った」がわざわざ明示すべき価値になった。
これはある意味で皮肉な状態。テクノロジーが進歩した結果として「テクノロジーを使っていないこと」が差別化要因になっている。消費者の反応を見ると、これは一過性のトレンドではなさそう。どう考えてもスロップコンテンツは増え続ける。そうなると「手作り」「人間が作った」「リアル」の希少価値は上がる。
マンモスコーヒー「安くてデカい」が突くカテゴリーエントリーポイント

韓国から上陸したコーヒーチェーン「マンモスコーヒー」が好調。2025年1月に日本初上陸し、都内のオフィス街に続々出店。3月26日には4店舗目が神谷町にオープン。
人気の理由はシンプルで「安くてデカい」。Lサイズは940mlで約400円。Sサイズは驚きの190円、Mサイズでも250円。コンビニコーヒーやチェーン店が値上げに踏み切る中で、この価格設定はかなり強い。
低価格の実現方法もシンプル。席を持たないテイクアウト特化型の狭小店舗、モバイルオーダーとセルフレジで人件費を抑制。店舗の賃料と人件費を圧縮することで、コーヒー豆の価格高騰下でも大容量・低価格を維持している。オフィス街に出店して会社員の常連を掴む。運営会社社長は「毎日通えるカフェになりたい」という。
カテゴリーエントリーポイント(CEP)で見ると景色が変わる
コーヒー市場は飽和していると言われて久しい。スタバ、ドトール、タリーズ、コンビニコーヒー、サブスク型のコーヒースタンド。「もうコーヒーで新しいことはない」と感じている人は多いだろう。
でもそれは、カテゴリーを前提にした見方だ。「コーヒー市場」という枠で考えると確かに飽和している。ところがカテゴリーエントリーポイント(CEP)、つまり「どんな場面で、どんな理由で、そのカテゴリーに入ってくるか」のレベルで見ると、攻めどころはまだ残っている。
マンモスコーヒーが掴んだCEPは、「午前中に買って、仕事しながらちびちび飲み続ける」という文脈だ。940mlという量は一杯のコーヒーとしては異常に多い。一息で全て飲む人はさすがにいないだろう。でも「午前中いっぱい手元に飲み物がある状態を維持したい」という文脈で見るとこれは合理的なサイズになる。350mlのコンビニコーヒーだと1時間で飲み終わる。940mlなら午前中ずっと持つ。しかも400円。毎日買っても月8,000円程度。スタバのグランデを毎日買うよりはるかに安い。
つまりマンモスコーヒーは、「美味しいコーヒーを一杯飲む」というCEPではなく、「仕事中にずっと飲み物が手元にある状態(それがコーヒーなら最高)を安く維持する」というCEPで戦っている。コーヒーは好きな人にとっては仕事時間に常飲するもの。そう考えると、競合はスタバやコンビニだけでなく、いやむしろデスクに置いたペットボトルのお茶やウォーターサーバーなのかもしれない。ネスカフェよりちゃんと店で作ったコーヒーが飲みたいと。
「文脈×属性=価値」という公式
フィジカルな属性を活用したカテゴリーエントリーポイントは強い。
たとえばコストコが支持される理由のひとつは、大容量パッケージそのものが「まとめ買いして安く済ませたい」という文脈と直結しているから。ドン・キホーテの圧縮陳列も、「掘り出し物を見つける楽しさ」という物理的に圧倒するインパクトがある。
マンモスコーヒーの940mlも同じ構造。文脈(仕事中ずっと飲みたい)×属性(でかい・安い)=価値(毎日通える、財布に優しい、午前中ずっと持つ)。この掛け算。
しかもこの価値はシンプルであるがゆえにへたりにくい。マンモスコーヒーに勝つには、オフィスの近隣で安くて多い商品を提供するぐらいしか対抗手段がないのだ。フィジカルな強みは劣化しにくい。値上げしない限り、毎日の選択理由がブレない(もちろんこの破壊的価格を維持できるのかどうかは注視すべきだ)。
飽和しているのは「カテゴリー」であって「文脈」ではない
コーヒーに限らず、「この市場はもう飽和している」と言われるカテゴリーは多い。ビール、コンビニ、ドラッグストア、アパレル。でも飽和しているのはカテゴリーレベルの話であって、CEPレベルで見れば空白はまだある。
梱包や形状、容量、入数。こうした物理的な設計要素はブランディングやマーケティングの議論では地味に扱われがちだ。情緒価値や世界観の重要性は確かに高まっている。でも実際に消費者の行動を変えるのは、こういう具体的な属性であることはまだまだ多い。というかなくなることはない。文脈に合ったフィジカルアベイラビリティを設計するべきなのだ。
値がつかない本が、体験設計で「売り物」になる
銀座ソニーパークで2月に開催されたイベント「本の公園」が面白い。
仕掛けたのは古本のオンライン買取・販売大手バリューブックス。銀座ソニーパークの地下2階に約2万冊の古本を並べ、誰でも自由に入って好きなだけ古本に触れ、読める空間を作った。入場は無料。座って何時間読んでもいい。気に入った本があれば、1,800円のオリジナルトートバッグを買えば5冊まで持ち帰れる。
実はここに並んでいる本、本来なら値がつかなかったものなんです。バリューブックスには毎日約3万冊の本が全国から届くが、そのうち約半分には値がつかず古紙回収に回ってしまう。値がつかない理由は本の傷みや内容の良し悪しだけでなく、例えば有名な賞を取った作品は短期間に何万部も売れて、しばらくすると大量に古書として出回ってしまうので需給バランスが崩壊し、どうしても値が付かない、なんてことがある。
いずれにせよ「本の公園」に置かれていたのは、市場原理上は値が付かないと判定されてしまった本たち。
体験設計が「モノの価値」を高めている

結果はどうなったか。初日に用意した約2万冊があっという間になくなり補充が追いつかない事態に。もともと「トートバッグに何冊でも詰め放題」だったのが、4日目から5冊制限に変更。普通ならそこで客足が引くところか…と思いきや、入場者数は大きく減らず。SNSでの拡散が止まらず、開催期間中ずっと大盛況のイベントに。
冷静に考えてみると不思議な話で、同じような本はブックオフにも大量にあるし、値段はもっと安い場合もある。なのになぜこのイベントは大盛況なのか。
答えは体験設計の秀逸さ。
まず空間。銀座ソニーパークは普段アートやテクノロジー系のイベントをやっている場所であり、書店ではない。そこに大量の本があるという意外性。本棚が整然と並ぶ書店とは違い、雑然と置かれた本の山の無骨さはあれど、それも面白さにつながる。まさに公園のように自由に歩き回って掘り出し物を探す感覚。この「ディグる楽しさ」が体験の核。
ほとんどの古本が「1点~数点モノ」である希少性も体験を刺激している。2万冊は多いようで、人気のある本はすぐなくなる。少し目を離すと気になっていた本が消えている。通常の書店では起きない緊張感が生まれてるのが面白い。
5冊制限があることも希少性と相まってゲーム性を高めている。そもそも最初の詰め放題より、この制限後の方がイベントとしては面白くなっていたかもしれない。詰め放題だと考えなしに突っ込むが、5冊に絞るとなると真剣に選ぶ。数万冊の中から自分の5冊を選ぶという行為がゲーミフィケーションになっていて、選ぶプロセス自体が体験価値なのだ。
1,800円のトートバッグを買うと5冊持ち帰れる。1冊あたり360円と考えると古本としては実は高い値段な気もする。でも利用者はたぶん「1冊360円の古本を5冊買った」とは思っていないだろう。「このイベントの中で自分だけの5冊を見つける体験(とトートバッグ)」に1,800円払っているってこと。

実は銀座に書店がほぼなくなっている。街で本に触れる場所自体が激減しているからこそ、「本に囲まれて好きなだけ読める場所」に希少価値が生まれたのかもしれない。
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日本初、世界的に大バズりの市川市のニホンザル、パンチくん×IKEAのバイラルを乗りこなすPRテクニック

千葉県市川市動植物園にいる生後7ヶ月のニホンザル「パンチくん」が日本だけでなく、世界的に大バズりしている。パンチくん、実はとってもかわいそうで、実の母親に育児放棄され、子ザルなのに群れからも弾かれてしまった。そんな中、飼育員がIKEAのぬいぐるみを渡したところ、どこに行くにもそれを抱えて離さなくなった。そんなけなげな姿が日本でバズり、更にそれがTikTok経由で世界にも広がり、涙を流しながらパンチくんを見守る海外の方が大挙。動物園ももちろん長蛇の列に。

この話題のぬいぐるみがIKEAのオランウータンのぬいぐるみ(実は猿ではない)。日本円だと1499円。話題になった瞬間に日本・アメリカ・韓国で即完売。最近では日本では在庫は復活していそう。
この話、もちろんIKEAが関わってくるのだが、昨今様々な企業の公式が「ネット話題」との絡み方をミスして燃えていたりするので、理想的なバイラルへ乗っかり方として解説。
まず、初手がいいアクションになっている。

IKEAのソーシャル担当がやったことはシンプルで、オフィスにあった同じぬいぐるみを持って外に出て、芝生に置いて、スマホで撮って、投稿した。それだけ。結果、Facebookで11万いいね。もちろん自分だけでやってるし、わざわざ企画も上げてない。リアルタイムマーケティングではクオリティよりスピードが勝つ、という話の超わかりやすい証明です。
ストーリーに乗っかることの世間的「同意」をどう得るか
注目すべきはその次。IKEAは焦ってこのぬいぐるみを割引きしたり、キャンペーンを仕掛けたりはしなかった。
IKEA Japanはこの市川市動植物園に大量のぬいぐるみを寄贈したのだ。件のオランウータンだけでなく、様々なぬいぐるみを。パンチくん宛てだけでなく、動植物園全体に。実際、動物園でぬいぐるみを活用する事例は多くある。
市川市長はこのIKEAの行いを投稿。こうしてIKEAは公式に「パンチくんの物語の一部」になった。

ここが勝負の分かれ目なんです。
「パンチが使っているあのぬいぐるみ、買えます!」とバナー広告で見かけたら興ざめ。パンチくんを正式に広告に活用してもダメでしょう。それをやった瞬間、バイラルに「乗っかった」感が出て一気にダサくなる。近年、生活者はとてもネットリテラシーや広告リテラシーが上がっているので、そうしたアクションは「タダ乗り」と判定されてむしろマイナスの印象になる。直近でマクドナルドの絵本×ゆっくりコラボに疑問が出るのもそうした背景はありそう。

バイラルな出来事に自社ブランドが参加したいとき、いきなり売りに行くのではなく、まず何かを差し出すことで初めて物語に参加する資格を得る。
もともと「資格」を持つ場合はもちろんそのまま乗っかって問題ない。例えば2025年のM-1グランプリ、優勝したたくろうの漫才では京都産業大学やTOTOTAの名前が使われていた。この場合、既にブランドは巻き込まれている状態なので、シンプルにたくろうとコラボレーションすれば良い。既に京都産業大学やTOTOTAはコラボを実施しているが、ほとんどポジティブに受け入れられている。
他者の物語に参加するには対価がいる。IKEAにとってはぬいぐるみの寄贈がそれ。対価を払った後なら、売っても嫌味にならない。順番を間違えると同じ行為が「ネット話題の搾取」に見えてしまう。結果PRは反発に転換する。

IKEAはパンチくんの文脈をよく理解している。そもそもパンチくんの物語はスタートが悲しい。育児放棄なのだから。ぬいぐるみ自体が根本的な解決になっていない可能性も孕んでいる。IKEAは上記の投稿でもそれを理解した上での適切な距離感を理解していて素晴らしいですよね。
IKEAは物語に参加する資格だけを得て、あまり余計なことをしていない。結果的に世界ではこのぬいぐるみは、物語が付加された上で売れまくっている。IKEAのイメージも良い。非常にうまい乗り方のお手本と言っていいでしょう。
僕もこのことを調べていたらTikTokがパンチくんだらけになって胸が締め付けられるんですが、パンチくんが健やかに生きられるよう祈っています。
【海外現地調査レポート】
ロンドン|ABBA Voyage——「本人がいないライブ」が、なぜ最高のライブ体験になるのか
先日、ロンドンで念願のABBA Voyageを体験してきた。

正直に言うと、行く前は「過去の栄光を技術で再現する」類のコンテンツかと思っていた。レジェンドバンドの思い出を消費するノスタルジックな体験。僕はABBAの強いファンとかではないので、本当に楽しめるか・・・なんて思っていたんですが実際に体験してみて非常にポジティブな驚きがあった。これは「再現」じゃなくて「ライブの再発明」なのだと。
「不在」を欠点にしなかった設計思想
ABBA Voyageは、ロンドン東部のQueen Elizabeth Olympic Parkにある約3,000人キャパの専用会場「ABBA Arena」で上演されている常設型コンサート。40年前に引退したABBAの4人が1970年代の姿をしたデジタル版「ABBAtars」として、生バンド・照明・舞台効果と完全同期しながらパフォーマンスする。上演時間は約100分、休憩なし。まず前提として技術がすごい。本当に世界最先端。目の前に出てくるABBAメンバー4人は、本当にそこにいるようにしか見えない。
ILM(ルーカスフィルムの視覚効果スタジオ)が中核を担い、約160台のカメラで本人たちのモーションキャプチャを収録。動きだけでなく仕草や感情の微細な揺れまで取り込んでいる。再現映像にありがちな「不気味の谷」感は全然ない。
表示は「ホログラム」ではなく、65百万ピクセル級の超高精細LEDスクリーン。制作側はホログラムと呼ばれるのを明確に嫌がっていて、実際にはスクリーンの精細さだけでなく、照明・レーザー・スモークといった物理的な舞台効果をを提供することでライブとしての真実性を加速させている。「人を再現する」だとホログラム的なものを想像するが、映像を立体に見せるというよりも舞台全体でライブとしての完成度を高める方向性。
「1979年」を選んだ理由
面白いのは、ABBAtarsの見た目。デビュー期の「Waterloo」(1974年)のような最も若い頃ではなく、1979年前後が基準年として選ばれている。Björn本人が「1979年の自分たちの頭部を作っている。女性陣がその年を選んだ」と語っていて、つまり「一番若い時」ではなく「スター性のバランスが最もしっくり来る年」を選んでいる。
実際に見ると、確かに全盛期ど真ん中というより少し壮年寄りの温度感がある。無理に20代前半に戻すより、信じられる範囲で戻すほうがコンサート体験として成立するということか。そのバランス感覚もスゴイです。
さらに衣装も。70年代の服をそのまま再現するのではなく「もしABBAが年を取らずに"今"ツアーをやるなら何を着るか」という発想で作られている。なので今風の衣装、未来的な衣装なんかも登場する。これが回顧コンテンツにならなかった大きな理由のひとつだと思う。
「本人がいない」ゆえの自由さ
曲の間にMCがある。ABBAtarsが40年の歴史を超えていま改めてライブをしている面白さについて、ジョークを交えながら軽妙に話す。その姿すらもリアル。最後のDancing Queenでは会場中が総立ちで踊る。僕も思わず立ち上がってしまった。
先述の通り僕はABBAのファンではない(とはいえほぼ全ての曲を知っていたのがABBAのレジェンドたる所以だよね)。レジェンドだという認識はあるものの思い入れはない。でも単に技術がすごいだけでなく、ライブとして楽しめた。これがまさに「回顧ではなく良いライブだった」ことの証明でしょう。
そしてこの体験には「本人がいない」ゆえの意外な自由さがあった。トイレに行きたくなったら躊躇なく行ける。途中で飲み物を買いに行くのも気軽だ。リアルなアーティストのライブだと「いま行ったら大事な曲を見逃すかも」「せっかくのライブなのに」という心理的プレッシャーがある。デジタル版だからこそ、ある意味少し楽に自由に楽しめる。これって意外と大きい。無人運転のタクシーの気楽さに通じるものがある。

会場のモジュール感
ABBA Arenaはショーのために建てられた専用施設で、客席からの視線・座席の高さ・ステージとの距離などを数学的に詰めて、「どこで見ても成立する没入」を先に設計し、建築がそれに従っている。しかもこの建物は完全に解体・移設できる仮設構造。ハイブリッドな鉄骨+木質構造で、ショーが終わればコンテナに詰めて別の都市へ運べるように設計されているらしい。
つまりABBA Voyageは「ロンドンで固定上演するコンサート」であると同時に、理屈の上では「ショーごと別都市へ輸送できるプロダクト」でもある。これはライブエンターテイメントの供給の仕方として非常に新しい。
チケット設計も巧い。座席だけでなくダンスフロア(スタンディング)やダンスブース(専用の踊り場付き)を用意し、「静かに見る人」と「踊って参加する人」を分けて最適化。
ライブエンタメの「供給革命」
3周年で新曲が追加されたように、固定の展示ではなく運用で鮮度を維持する設計にもなっている。次に行くと別の曲が入っているかもしれない。「同じショーなのに更新される」という、ゲームのアップデートに近い思想が常設エンタメに持ち込まれている。
これが当たり前になれば、アーティストの「良い状態」を保存しておくことで、肉体的な制約があっても「新しいライブ」を創り出せる。本人不在で広く公演でき、時間的・地理的制約も解消される。ライブエンタメへの入り口の敷居が下がれば、逆に本人のリアルなライブの価値も上がる。この思想は相当拡張性があるんじゃないかとワクワクしました。
テクノロジーとライブエンタメの幸福な関係。ABBA Voyageはまさにそれを体現していた。ロンドンに行く機会がある方はぜひ。
中央アジア最高の現代美術館 キルギスのムゼイ・ソヴレメンノヴォ・イスクーストヴァ・トロン
年末年始はわたし、中央アジアの3か国(カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン)を訪問してきました。現代美術愛好者、そして没入型エンタテイメントの調査としてもどうしてもいきたかった美術館が、この「トロン現代美術館」=ムゼイ・ソヴレメンノヴォ・イスクーストヴァ・トロンです。
場所はキルギスの首都、ビシュケクから30分ほど荒野を走ったクンツー村。どうみても美術館なんてなさそうなところに突然現れるのがこの美術館です。ちなみに冬だからなのか、年末だからなのかわからないのですが、私以外に鑑賞者が1人もおらず守衛さんらしき人が広大な敷地を案内してくれました。
この美術館、敷地が20,000㎡で、旧ソ連時代のワイナリー、数棟を改装したアートスペースとなっています。展示ホールだけでなく屋外にもインスタレーションが様々に存在する仕組みで、寂れたワイナリーの雰囲気と相まって「ここが廃墟なのか、それとも美術館なのか」「どれが美術で、どれが朽ちた人工物なのか」の境界線が限りなく曖昧になる仕組みになっています。これは意図された展示手法で、そもそもこの展示手法は旧ソ連の影響を空間体験に落とし込んでいること。
キルギスも旧ソ連だったわけですが、全体主義である旧ソ連の残り香はそこかしこに中央アジアには存在します。この朽ちたワイナリー自体も崩壊し、残滓となった旧ソ連の存在そのものであり、その体験の中にアートを埋め込むことによって、ソ連以降のポスト全体主義の現実を美術館自体が反映するようになっている。展示されているアートもこの空間の導線に合わせて選ばれている印象です。

世界で色んな美術館に行っていますが、美術館の導線自体がこのように迷路のようになっている例はほとんどないです。荒廃した世界のSFに迷い込んだような中に自然にアート作品がある。大仰に「これがアートです」と説明もされないので、歩きながらアートと出会い、それがアートだと理解し、咀嚼するという体験自体が鑑賞になる。しかもところどころ密閉されていないこの空間は現在進行形で朽ち、当然埃も積もるので、現在進行形でそのアートは変化していく。非常に実験的な体験でまさに没入感がありました。

「何をアートとして認めるのか」の境界線があいまいになるのは自分の審美眼を試すことにもつながります。そのアートそのものに楽しさを見出してもいいし、空間全体に価値を見出してもいい。非常に鑑賞が自由なんですよね。本美術館を運営するトロン財団は中央アジア最大の美術チームだそうです。
非常にマイナーではありますが、私が人生で行った100以上の世界の美術館の中でも3指に入る素晴らしい場所でした。アートというよりもはやエンタメとして捉えてもいいかもしれません。超おススメです。
キルギスの首都、ビシュケクはカザフスタンの首都アルマトイや、ウズベキスタンの最大都市タシケントから1時間ほどで行けますのでそんなに秘境でもない。ぜひ。行き方に困ったら相談して下さい!


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